つれづれ花85 母の胸の内 認知症  2016年12月21日
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母のこと、認知症を患っていること、初めて話そうと思いました。 

母のことを書いておきたいのは、長女として生れたせめてものできることだと思うから。 そして若いころの母のこと、母の生きてきた道をわたしが知り得るほんの一部を記録にしておきたいと思ったからです。

そのきっかけをいただいたのは、いつも花の名前や分類や解説などで参考にさせていただいている、尊敬する『私の花図鑑』。 そのベスト写真集のページに掲載された最新画像ナンバー451「わらや」を観せていただいたからです。

わたしが生まれて育った家もこの画像のような家でした でも、このように立派で手入れの行き届いた家ではなく、大きな家でしたが普通の農家の生活感のある雰囲気の佇まいでした。

田舎の農村地帯に行くと昔なら・・・ そう、一昔前ならどこにでも見られた「わらや」。 藁屋根のことを言いますが、外側は茅葺きです。 茅はススキのこと。 その内側に藁で葺いて、藁が落ちないように支えているのは孟宗竹や真竹。 縦横にたくさんの竹を細かく格子に組んで縄で結びます。ところどころは天井の板張りはなくて柱や梁が見えています。 家人の部屋や座敷の上は板張りの天井がありましたが、大きな竈のある土間や囲炉裏のある上は板張りはなくて、屋根の梁や竹や藁や縄までもが見えていました。

太い柱から囲炉裏には鉄瓶を下げてお湯を沸かしたり、鍋で煮ものをしたりするように、太い鉄?で出来た鍵吊るしが下っていました。 囲炉裏やお風呂や竈には薪がくべられいつも火を燃やしていました。 煙が家じゅうに立ち込めたりして煙たいこともありました。 その煙で梁や柱や天井の竹が燻され、それを磨くと黒く光ります。 そんな茅葺屋根の暮らしの経験があります。

今も何処からか杉の葉や小枝を燃やす煙のにおいを嗅ぐと懐かしくて切なくなるのはこんな思い出が心と記憶の奥底にあるからでしょうね、焚火のにおいがとても好きです。

茅葺き屋根の葺き替えも大事業です。地域が一体になり協力します。まず大量に茅を刈って集めること、河川や山野や空き地に生えている茅を近隣の人たちが刈って運んでくれます。各集落には茅を生やして置く「茅場」という空き地があります。そこに茅を手入れして生やしてどこかの家で屋根の吹き替えをする時のために備えます。 茅の準備ができると古い屋根の茅を外します。大勢のお手伝いの人たちが集まり作業が始まります。顔も衣服も体中真っ黒に煤だらけになり子供のころに観たその姿が思い出に残っています。新しい茅を葺くときは「カヤデさん」という茅葺専門の職人さんを福島県の会津の方から来てもらいます。

時々、今は観光地になった茅葺屋根の葺き替えの地域一体のイベントの様子をテレビ映像で観ることがありますが、昔の個人の家の葺き替えもまさにその縮小版でした。懐かしい記憶の風景がまだわたしの中に眠っていることも思い出させてくださった今回の「わらや」の画像でした。遠い記憶のスイッチを押していただきました。

そんな家で母は生まれ、育ち、父が婿養子に来て家庭を持ちました。兄が生まれ、わたしが生まれ、妹が生まれました。 母は6人兄弟姉妹の長女でしたが、弟が二人います。

長男がいるのに母が婿養子の父と結婚して家を継いだのは、祖父が身体が弱く農作業が思うようにできなくて労力の必要に迫られたことが理由のようです。 

父は戦争では陸軍の騎馬隊に所属していました。 戦地に行くこともなく終戦になりました。 行動力があり体力と気力がある性格は農業という自分の力を発揮できる職業は合っていたのかもしれません。農業の経営内容も改革してなかなかの事業家だったのだろうと思います。

祖父は、自身の立場を考え若い婿養子の父に家の実権を委譲し事実上の隠居の身になりました。 祖父の判断は見事で潔いと思いました。 そのおかげで父は父の考え通りの農業と家庭の経営を任せられたわけですから自由になります。それを励みに父は地域の信頼を受け責任も果たしてくれたようで多くの役職をしていました。

母は住み慣れた地域に皆さんと和やかに暮らして心穏やかに平穏に過ごしてきています。そして地域の女性のリーダーとして若いころから長年積極的に活動していました。60代は町の民生委員として女性委員長の役目も務めることもできました。父や母が一生懸命働いてくれたからでしょう特にお金や物に困ることもなく恵まれていたことに感謝しています。 そして、いま、わたしも積極的に仕事に自分の楽しみに取り組むパワーは母の生き方を観てきて母ゆずりなのかもしれないと思うのです。

わたしはそんな父と母、この茅葺屋根の古い家の生活が好きでした。けれど時代は高度成長期。 古い農家の茅葺屋根の家は次々姿を変え、急に新しい近代的な合理的な家に建て替えられていきます。 台所は薪を燃やさずガスになり、土間はなくなり板張りの台所、屋根は瓦屋根やトタン屋根になります。壁は白壁でガラス戸はきちんと締まり隙間風も入らない(笑)。

中学生のある日、「家を建て替えようと思う」と、父から話がありました。驚きでした。「新しい家はいつでも建てられるけれど、このいまの家は一度壊したらもう建てられないよ」とわたしはこの家を残してほしいと願いました。そして、わたしが手放しで新しい家を建てることを喜ばないのを父は意外そうでした。

しばらく何事もなく過ぎていましたが、大工の棟梁さんが毎日のように来て何やら話し合っている様子、そして、家の裏山の杉の木が切られてしまいました。そしてしばらくして製材した柱や板が天日に干されたりしていよいよ家の建て替えなのだと覚悟しなければなりませんでした。

父は、享年70歳で天命を終えました。 役職半ば、花の盛りで惜しまれながらの旅立ちでした。

父の死後、母とふたりで北海道道東高野山参拝の旅行をしました。高野山参拝を最後に母は遠くへの旅を止めてしまいました。 友人たちとご詠歌を習って発表会なども遠くまで出かけていたのですが、だんだんと気力と体力と認識の衰えが目に見えてきました。

75歳を過ぎたころから言動が意味不明になり、怒りっぽくなり、精神的に不安定な様子が見えて、目の感じも鋭くなりました。兄とも言いあうことが多くなりわたしも気がもめました。認知症の始まりでした。

兄夫婦はきちんと面倒を見て対応をしてくれるのですが、認知症ということに予備知識も対応方法もまるで知らなくて、まして、自分の母親が認知症になるという現実を受け入れる心の余裕もないのです。

修羅場もあり、母は母で、兄は兄で、義姉は義姉で一生懸命。それでもうまく行かない認知症家族。

認知症の人を抱えた家族の大変さは他人には想像もできない、娘のわたしでさえも軽々しい口出しや手出しは控えています。良く考えないとなりませんから難しいです。 同居して毎日生活を共にしてくれている兄夫婦には感謝です、食事や身の回りの世話に関わる義姉には特に感謝しています。 

85歳ごろからしきりに 「家に帰りたい」 「もう家に帰りたい」 「誰か送って行って」 「ここは○○おばさんの家だから自分の家じゃない」 そう言い荷物をバッグに詰めて外に出ようとします。そして、自分の子は未だ乳飲み子の幼い子供たちだと思っているそうです。

「ここはお母さんの家だよ 生まれてずっと住んでいるところだよ」 「ここが自分の家だよ」 「子供のころからここにずっと住んでいるんだよ」 そういうとその時は納得して落ち着きますが、また同じことを繰り返すそうです。 実際には歩いて行ってしまうことも俳諧もないそうなのでそれは安心ですが。

兄は「いくらここが家だよ」 と言っても解ってくれないと辛そうです。

そうなんです。 母の家はあの茅葺屋根の家なんです。母の胸の内にある家は生まれて育ったあの家なんです。 新しく立て替えた今住んでいる家は自分の家という認識はなくてよそ様の家なんです。自分の家は、囲炉裏や竈があり、まきを燃やした煙の香りがするあの茅葺屋根の家だけなんです。祖父や祖母と暮らしたあの家と幼い母。 理屈も何もなく母の心は若いころの記憶の中で生きている。

母は 生まれて育ったあの茅葺屋根のあの家に帰りたいんです。

兄に、そう母の胸の内を説明しました。兄は少し涙ぐんで母の胸の内を理解したようです。

この頃の母の顔の表情を観ていると涙が出てきます。 優しい眼差し、澄んだ瞳。 穏やかな表情は一時期の鋭い眼ではなく、童心の純真な眼になっています。

喜びも 苦しみも 悲しみも すべて乗り越えたようにやさしく微笑んでいる今。

女神の領域 宇宙人の領域に入った母、 母の胸の中の世界で幸せに暮らしてほしい。

もう少し もう限りの見えた命だから・・・。

  那須の里山花図鑑