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遊行柳と西行 芭蕉 蕪村

遊行柳は本来一遍上人に始まる時宗との関係が深いのですが 芭蕉の奥の細道が出版されてからは 遊行柳といえば芭蕉という図式が成立したのです                                    遊行柳の遊行とは時宗の上人のこと

遊行柳には三つの歌碑・句碑があります                  

一つは西行                                道の辺に 清水流る柳陰 しばしとてこそ たちどまりけれ                         

二つ目は芭蕉                               田一枚  植えて立ち去る  柳かな        

三つ目は蕪村                               柳散り 清水涸れ石 ところどころ

西行はこの先白河の関でも一句                    都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 

謡曲「遊行柳」は薄れ 西行 芭蕉 蕪村によって遊行柳は一躍世に躍り出たといえるでしょう

参考文献・那須検定教本 「那須学物語」

芦野の里 史跡 遊行柳
西行法師まめ知識 

藤原鎌足を祖先の裕福な武士の家系に生まれる 成人し御所の北側を警護する「北面の武士」として官位と地位を得る 北面の武士は容姿重視も採用条件にあるのです 流鏑馬や短歌も高く評価されていて 文武両道 容姿端麗の人物と伝えられている                         23歳で官位と将来の安定と妻子を捨てて出家 周囲は若い時期の突然の出家に驚きと注目が 理由の一つには”高貴なお方”(皇后)との失恋も                            出家は珍しいことはありませんが 有名な寺院に修行に入らず どの宗派にも属さず 地位も名誉も求めず ただ山里の庵で自己と向き合い 命を見つめ 花や月を愛したこと 歌を詠むことで悟りの境地を求め 煩悩に苦しみながら 迷いや心の弱さを素朴な口調で素直に歌に詠んでいる 決して聖人ではない 人の誰にも通じる自然体の心情が人を惹きつけるのでしょう                         

妻子を捨てたといいますが 娘の行く末をずっと見守り続けていたことも事実のようです                      西行 という名は 阿弥陀仏の浄土があると信じられている西方から                         28歳東北へ 短歌の歌枕の名所を訪ねる長旅へ                              31歳から 高野山で30年修行                                        50歳 空海の修行の聖地探訪と怨霊で有名な崇徳帝の鎮魂のため四国巡礼の旅                  その後伊勢に移住                                                68歳 戦火で焼けた東大寺大仏殿修復の勧進をして歩く高僧重源に出会う 西行ゆかりの奥州平泉の藤原秀ひらに寄付の願いを頼まれ 奥州に向けて伊勢より旅立つ 途中鎌倉で頼朝と偶然に出会う その日8月15日(旧暦ですから新暦の9月半ば頃でしょう)                     白河の関で読まれた歌はこの秋と思われます                              71歳 京都高尾の神護寺に向かう途中 まだ少年の高山寺の高僧明恵上人と出会い それまでの西行の短歌の集大成とも言える和歌観を語り伝えた                              71歳 大阪河内 役の行者(役の小角:えんのおずね)が開祖の弘川寺が終焉の地                  

亡くなる数年前 遺言のように歌を遺している

      願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ                      (願いが叶うなら二月十五日満月の月と桜の木下で死にたいなぁ ) 

二月十五日は釈迦の命日 願いどおり釈迦より一日後を付いていくように二月十六日亡くなりました  旧暦で二月十五日は新暦の三月半ばですから 桜の花の咲く頃でしょう

江戸中期 西行を深く慕う広島県の歌僧似雲法師は西行の墓を発見 西行の好きな桜の木を墓を囲むように植えた 今も春には1500本の桜が見事に咲き競うそうです

ブログリンク 「二つの西行忌」

奥の細道 芭蕉 那須滞在の日々

元禄二年 芭蕉は曾良を伴い奥の細道に旅立ちました  

「那須黒羽というところに知る人あればこれより野越えにかかりて・・・」と旅を続け旧暦4月3日に黒羽に着き 16日までの14日間滞在しました 黒羽にはお寺や街のところどころに芭蕉の句碑が立っています 高校生の時部活の芭蕉研究で拓本を採り訪ねた思い出があります

芭蕉は江戸を発ち 日光 黒羽 那須 そして白河へとコースを設定しました 那須湯本へ向かう途中 高久に二泊しました 国道4号線高久本郷には宿となった高久家と「芭蕉二宿の地」という石碑が建っています 

『落ち来るや 高久の宿の ほととぎす』 という句を残しました

意味は諸説あるようです 

高久の地名と高い空から落ちてくるように鳴くホトトギスの鳴き声を聞いた・・・  

ホトトギスの声が落ちてくる高さと高久を掛けているのではないか

夕方だったので日が落ちて陽暮れになりホトトギスの鳴き声を詠んだという素直な解釈も出来る

落ちるとは江戸から東北地方に行くこと 列車も上り下り というように 都から離れることを”都落ち”とも言い 都から離れてきた心情を詠んだとも・・・ 

ホトトギスは芭蕉のことを指すこともある 郭公 杜鵑 不如帰 などと書く

高久を後にして那須湯本の殺生石に向かう 途中詠んだ句

『野を横に 馬かたむけよ ほととぎす』 

ホトトギスの鳴き声を聞きたいから馬を鳴いている方向へ向けよ という意味

そして 殺生石で詠んだ句

『石の香や 夏草あかく 露あつし』 芭蕉

殺生石付近は硫黄山で有毒ガスが噴出しています なので付近には硫黄の匂いが漂っています 那須湯本の温泉街も湧き出る温泉が硫黄泉なので温泉は白濁してどこでも硫黄のにおいがしています

けれど不思議なことに 那須御用邸があります那須の東側の温泉は匂いも濁りもない単純泉なのです

そしてもう一句 長年芭蕉作の句として 石碑に刻まれた句があります

『飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上』  麻父

殺生石に建つ碑です 一般に芭蕉の句として親しんできましたが作者は麻父 有毒ガスでこの場所を飛ぶものは命を絶たれるという殺生石らしい名句なので多くの方々に知られたのでしょう 現在は「芭蕉」の銘は消されています

那須湯本を後にして 芭蕉と曾良は芦野に向かい 里にある遊行柳で句を読み奥州街道を白河の関へと足を進め みちのく 山形 奥州へと向かったのでした

もう少し詳しい紹介が出来るように機会を得て「奥の細道」をより深く解読し その素晴らしさを知りたいと思います

40年来の友人と殺生石にて
千体地蔵と殺生石
殺生石関連は          ロイヤルリゾート・那須 

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殺生石遠景
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